忘失の記憶
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壊し屋が流華堂の二階にあるプライベートルームに入った時、そこにこの家の住人である流華はいなかった。二階へ上がる前に一階の喫茶店を覗いたが、流華はそこにもいなかった。しかしそれを気にするでもなく、壊し屋は上着を脱ぎ捨て、シングルのソファに寝転んだ。目を閉じていると、どうも隣から声がする。プライベートルームの隣は骨董品を展示している部屋だ。流華の声がする。家の中にいるのなら問題はない。壊し屋はソファに寝転んだまま動かなかった。
やがて流華の声が聞こえなくなり、しばらくして階段を上ってくる足音が聞こえた。足音が階段から壊し屋のいるリビングに十分近づいてから、壊し屋はソファに寝転がって目を閉じたままで言った。
「客がいたのか?」
そこでようやく目を開けると、流華の後姿が見えた。寝室とリビングを区切るためのカウンターの前に立ち、コーヒーを入れているようだ。今日の着物は紺の地に赤い蝶の舞う柄で、金と紅色の帯も蝶のように結わえてある。
「丁度今お帰りになりました」
コーヒーメーカーをセットして、流華が振り返る。壊し屋はソファに横たえていた体を起こして、流華を手招いた。流華は大人しく壊し屋に招かれるままソファに近づく。壊し屋は近づいてくる流華の手を掴んで引き寄せると、流華を自分の膝の上に乗せた。流華の体は、まるで蝶のように軽い。
流華は壊し屋の乱暴な振る舞いにも文句を言わず、悪戯に口付けられてもクスクスとくすぐったそうに笑うだけだった。どうにも、流華は壊し屋を大きな獣がじゃれついている程度にしか思っていないらしい。もしかしたら、組み敷かれて服を脱がされても笑っているかもしれないな、と壊し屋は思う。試してみようか、という悪戯心を壊し屋が抱いた時、流華は壊し屋の膝の上で首を右に小さく傾げた。
「壊し屋さん、昨日のことって、覚えていらっしゃいます?」
唐突に出された問いに、壊し屋は一瞬だけ眉をひそめた。しかし流華が思いつきで話すことは別段珍しいことでもない。壊し屋はいつも通り、流華の小さな問いに短く答えてやった。
「あぁ、大体な」
そう壊し屋が答えると、流華は右に傾げていた首を、今度は左に傾けた。
「一年前のことは?」
「印象に残っていることだけなら覚えているぜ。あんたに、初めて会ったときのこととか」
壊し屋の答えに、流華は首を傾げたままほんわりと笑った。冗談だと思ったのだろうか。もし冗談だったとしてもさほど面白いものでもないような気がしたけれど、流華の反応をいちいち真面目に考えてはいられない、と壊し屋は諦めた。壊し屋が小さく溜息を漏らすと、流華は何を思ったのか、壊し屋の肩に頭を預けて猫のように壊し屋に擦り寄り、もたれかかった。
「空白の記憶のとき、自分が何をしていたのか考えて思い出せないと怖くなりませんか?」
ぽそりと肩口で囁かれた言葉に、壊し屋は今度こそ本格的に眉をひそめることになった。
「怖いと?」
特に感情的な声音ではないが、クマのぬいぐるみの件もある。流華はいつまた呆然としながら泣き出すか分からないし、泣かれると壊し屋は困る。膝から落ちないように流華の腰を片腕で支えながら、壊し屋は次に何を言うべきか迷った。考えているうちに眉間に皺がよっていたらしい。流華が壊し屋の顔を見上げてくすりと笑い、伸び上がって壊し屋の眉間に軽く口付けた。
「記憶に空白があること自体はおかしなことではありませんよね」
伸び上がった流華の顔を上に見ながら、壊し屋は熟考しつつ慎重に答えた。
「そうだな。電子脳だって参照回数の落ちた記録はメモリ開放のために捨てるからな」
「でも例えば他の人ならば絶対に忘れられないような記憶が空白になっていると、恐ろしくなりませんか?」
生憎、壊し屋は何かを恐ろしいと思ったことはない。そういう風にあらかじめ壊されているからだ。だから流華の言うことは理解できない。
「……例えば?」
理解できないが、理解したいとは思っている。だから壊し屋はさらに流華に説明を求めた。
「例えば僕の祖父です」
「確かこの店を最初にやっていたのは、あんたの爺さんだったな」
「そう記憶しているのですが、僕はいつから祖父と一緒にいて、いつ祖父がいなくなったのか、全く記憶にないんです。そんなことを忘れてしまうなんて……」
そもそも、その祖父とやらは本当に存在していたのか。両親の記憶がないのは何故か。記憶している過去が、確かにあった現実なのか。流華が時折思い出したようにそんな疑問を持ち、明日にはそれをすっかり忘れているのは何故なのか。
「だから、壊れているんだろう?」
本当に流華は昼間寝て、夜だけ起きているのか。それなら何故、昼のうちに冷蔵庫の中に食料品が揃えられ、修理を依頼された品を依頼先に届けられているのか。昼のうちに揃えられる生活必需品を、何故流華は疑問も持たずに使い続けられるのか。祖父のことよりも、ずっと大切なことだ。それなのに、流華は絶対にそれを考えない。
「自分のことは直せないなんて、滑稽ですね」
壊し屋の顔を見下ろしながら、流華は自嘲気味に笑った。壊し屋はそれに答えず、首を伸ばして流華の白い首元に唇をよせた。
「俺と出会ったのがいつで、どういう状況だったか覚えているか?」
唇を首元から上に移動させて、小さな形良い耳を舐める。かかった息がくすぐったかったらしく、流華は壊し屋の腕の中で身をよじった。
「だって、壊し屋さんは忘れる間もなく会いに来て下さるから」
「なら良いだろう。爺さんの記憶が必要か、それとも俺との記憶が必要か。必要な方だけ覚えていれば、何も怖がることなんてない」
耳元から頬に壊し屋の唇が移動する。どちらが必要か、流華が言う必要はない。そのまま唇を塞いでしまおうとする壊し屋の意図を察したとはとても思えないが、流華は唇を塞がれる前に壊し屋の耳元で小さく呟いた。
「壊し屋さんなら、僕を直せるのではないかと思うのですけど」
壊し屋はその言葉に思わず流華から体を離した。流華は突然引き離されてきょとんとした目をしている。何故そんなことを思ったのか、そう尋ねようとしたけれど、壊し屋は口を噤んだ。案外、壊し屋が流華に感じている引力を、流華も壊し屋に感じているのかもしれない。
「……そうだな。あんたが望むなら、そのうち試してみても良い」
本当に流華がそう望むのなら、壊し屋が反対する理由はない。ただし、壊し屋の行為が本当に流華を直すことになるかどうかは分からない。さらに壊すだけかもしれないけれど、それでも良いというのなら。